学問としての教育学 (苫野一徳)

哲学

 教育哲学を専門とする苫野さんの著書。教育学というものが、共通の目的をもって研究されないとあちこちで勝手なことを言って収集がつかなくなっちゃうというところからスタートしている。そして、教育の目指すべき「よい教育とは」について、論証していくのだが。読んでいて頭の中を右から左に文字が流れていくことが何度もあった。よい教育というのを〈自由〉〈自由の相互承認〉〈一般福祉〉という目的に行われるものであり、教育学がその部分で集約されていくことが必要だと説く。

 そして、教育学全体を見渡しながら哲学部門、実証部門、実践部門と分けて、どのような目的で、どうやって研究を進めていく必要があるかを、哲学的に考えていくわけだが、言葉というのは本当に難しい。これを目の前で話してくれているのなら、「そこは?どいうことですか」とか、「もう一度、お願いします」とか言えそうなものなのだが、一つ一つの単語としては理解できるのだが、もう一つ実感のない文章として受け止めてしまうのは私にそれを許容する力がないだけなのだろう。「・・・なので、証明された」というように言われても、なんともふわふわとした状態で、そうか、論証できているのかと思うにとどまってしまう自分が情けない。

 しかし、教育は一歩間違えば、間違わなくとも一つの洗脳であるので、ちゃんと「よい教育」というものに共通の理解がなければならないことはよくわかる。確かに、統計的な手法によって有意差を求めることで、教育の良さを測ろうとする研究が見られるが、その「よさ」をどのように示すかがとても大切である。ある人の経験則による「よい教育」では、他の人にとっては「よくない」かもしれない。そう考えていくと、「よい教育とは何か」をしっかりと教えたうえで教師にならねばいけないが、結果的には「よい教育」を定義したところで、その方法論のところで「よくない方法」を使ってしまえば結果的には「よくない教育」となってしまう。一人一人の先生や大人や親が、子どもたちが自由で、他の誰かの自由を認められるような子どもを育てるために日々考えていないといけないと思う。公教育であれば、そこに一般福祉が付け加わるわけで、社会の一部ではなく、子どもたちの一部ではなく、全体に対して平等に行われる必要がある。

 そして、最終的な具体的な方法として「学びの個別化・協同化・プロジェクト化」というところにはすごく共感できるのだが、さてさて、それが実際に行おうとしたところで、公教育がそうなっていかないのは、やはり教師が「かつての学校文化」の中で評価された人たちであることが大きな足かせになっているようにも感じる。

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