ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち (おおたとしまさ)

ノンフィクション

 一気に読めてしまう本がある。今回の本がそうであった。なにから探してきたのかは覚えていないが、「教育虐待」という題名に刺さるものがあり、図書館で借りてきた。

 私は教育とは何か?!という問いを常に持っている。でも、教育が「虐待」となると言われると、改めて教育とは何かを考えてします。不幸にして「教育」という否定しがたい名目のために傷つけられた子どもたち、命を絶った子どもたち、そして、一生の傷を抱えた子どもたちのエピソードが掛かれている。一つ一つのエピソードは簡潔に書かれて、メモをとるような内容でもない。こんなことが起こっていたのか、こんな問題があるのかと、まるで違う世界の出来事のように読み進めれてしまう。

 しかし、特定の家庭に起こる問題ではないということで、話題は広がる。ここからは読みごたえがある。ある特定の子どもではなく、教育という言葉の向こうにある、親の抑圧や過剰な対応を「そういうことなら、あるのかも」という視点から、問い続ける。そして、実際に起こったことや、体験した内容を絡めながら、エピソードを社会問題として深堀していく。

 「良い学校」とは何を指すのかということに疑問はあるが、多くの物差しでは偏差値を利用した学力テストによる評価が多い。しかし、本当にそうなのだろうか。そして、そういう学校に行けたなら、幸せになれるのだろうか。苦しくてつらい思いしながら、まさに「勉め強いられた」学びが子どもを育てるのだろうか。最後に合格できたとして、そのつらい経験は成功体験として輝く過去にできるのだろうか。親が良かれと思うことが、まさにとって親にとって良かれと思うことであって…。考え出すときりがない。親子関係であり、学校での評価であり、自分自身が育ってきた環境を思い浮かべるし、子どもを持つ親であれば自分の子どもへの対応を一つ一つ吟味したくなってしまう。

 最後は社会問題として、視点を変えて、「教育虐待」について考える。親は無力なのだ、無力でいいのだと言われると、ちょっと安心する。子どもに何かを問われると、「正解は何か」と考えて、背伸びしながら自分の解釈をまことしやかに話す自分が想像できる。でも、子どもはそういうことを求めているんじゃないのだ、一緒になって悩んで、一緒にオロオロして、子どもの存在を認めてあげればいいんだと言われると…恥ずかしくなる。自分にできなかったことを、子どもに求めてはいけない。自分がやったことを子どもに求めてはいけない…。いけないというよりも、求めても結果まで求めてはいけないということだ。子どものためというのは仕方なくても、結果が伴わないことを子どものせいにしてはいけない。

 こうやって考え出すと、自分の子育てはどうなんだ?何をしたら正解なのか?と正解を求めてしまうが、それこそがそもそもの間違いであると。面白い例えが一つ、AからB地点に行くとして、最短距離を行く道なら時間を得ることができる、ちょっと回り道すればきれいな景色をみて、感動を得ることができる、違う道なら一生の仲間と出会うことができる、とすれば、どの道を行ったとしても、たとえ最短距離で行こうとしたのに違う道だったとしても、その過去を肯定的に捉えることができれば良いし、正解はないのだ。こうやって言われると、先日読んだ堀江貴文と藤田晋の「心を鍛える」を思い出す。まさに過去を肯定しながら、自分を変化させて強く生きているのだ。そういう力を身に着けさせるのが教育かもしれない。だからといって、同じ方法で対応したらうまくいくわけではない。良かれて思っても潰れてしまっては意味がないどころか、悲劇をつくることになる。あぁ、教育って難しい、親子とは難しいと…いつの間にかめくるページを止めて何度もメモをしていた。

 親になったとき、子どもの教育を考えたとき、読んでおきたい一冊だと思う。

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