慟哭(貫井徳郎)

小説

二つのストーリーがある。交互にそのストーリーが現れるのだ。Weblio 辞書で調べてみると「慟哭」とは、悲しみに耐えきれず激しく泣くことを意味する言葉である。慟哭の「慟」とは「声をあげ、身を震わせてなげく」という意味で、「哭」とは「声をあげて泣き叫ぶ」の意味となる。慟も哭も、ともに悲しみの感情に起因しており、「歔欷」のように静かな泣き方ではなく、感極まった激しい泣き方をさしていう。

さて、小説との出会いから離すと、次はどんな小説を読もうかと本屋をぶらりしていて、話題の小説コーナーに置いてあるいくつかの本を手に取った。新刊が多い中で20年以上も前の小説が並べられている。その時は題名をメモだけして帰った。

そして、図書館に行ったときに検索したところ、蔵書の一冊にそれを発見する。いくつかのストーリーが一つに重なっていく小説といえば湊かなえを思い出すが、時系列に並べればこちらの方が先輩である。

二つのストーリーのうち一つは、何ともぬるくてどんなストーリーなんだろうと読み進めていく。片や連続少女殺人事件のミステリーで、キャリア刑事が冷静に事件に対応していく。最初はそちらが気になって読み進めていった。最初に書いた通り、交互にストーリーが展開していく。読んでいくと途中で「彼」が誰かが気になりだすが、もう一つのストーリーと重なるのかな?と思わせておいて、彼の苗字が登場して別人だと思ってさらに読み進める。

いつの間にかどちらのストーリーにも引き込まれていく。小説の良さは、気になりだすと少しの時間でも読みたくなってくるところで計られる。そして、この小説は一つ一つのストーリーはそんなに長くはない。ちょっとした隙間時間が自分の中で楽しみに変わる。これが読書の醍醐味だ。

新興宗教が抱える問題や、新興宗教にすがる人、そして、抜け出す人、冷静であると思われた人がいつの間にか「信じたいものを信じる姿」そういういう「なんで?」が浮かんでは消えていく中で、衝撃の結末を迎える。ページ数が少なくなるほどに緊張感は増し、最後まで読み終えて、でもそんなはずはないともう一度、市役所でのシーンをめくりなおす。

細かい細工があちこちにされて、結果的には全体が見える場所に立つというわけだ。そう考えてみると一つ一つのストーリーが短く積み重ねられているときには気が付かなかったことが、全体を見渡して一筋の物語になった瞬間、つながった時に感じたこともない衝撃は本当に面白いものだった。読み終えてすぐにこの気持ちを文章にと思うが…私の稚拙な文章では伝えきれない。そう考えると小説家ってやっぱりすごい職業だと思う。

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