一人称単数(村上春樹)

小説

なぜだか時々、村上春樹の本を読んでみようと思うことがある。それは前に読んでからかなりの時間を置いた後なのだ。どこかで村上春樹の小説を楽しみたいと思っているが、毎回、読み終わって結局なんだったのかと思うことがが多い。きっとそれは自分の理解力や感受性の問題だと思うから、幾年かをあけた後に改めて挑戦するのだ。

今回は短編集で、読み終えて思い出すのは後半の、そうつい数日の間に読んだ内容で最初の物語は題名を見返してもどんな内容だったかな?と思うくらいで申しわけなくすら感じる。

しかし、今回の短編集の中には気になるとこ…が二箇所あった。僕にとって村上春樹を表すことを村上春樹自身が文書にしているのだ。そんな文書はきっともっとあるのだろうけど、ふと栞を挟んでおこうと思ったのはその二箇所だった。

1つ目は、謝肉祭(Carnaval)の中にある、「シューマンはソナタのような古典的形式を基本的に好まなかったので、その形態は往々にしてほとんどとりとめのない夢想的なものになった。」という一文だ。夢想的なもの…これが村上春樹の小説を言ってるように感じている。僕の勝手な想像でもあるのだが、著者はちょっとしたきっかけや体験を深く深く掘り起こすことで事実の周りにたくさんの想いやら感覚的な言葉を載せて小説を書き上げるのだろう。解読する力のない僕には、果たしてなにがいいたくて、いま何が書いてあったのだろうか?と読み終えて…いや読みながら感じている。まるで夢のようにその時は確かに見ていても後からは思い出せないもののように。

もう一つは、一人称単数にある「それでも半ば義務的に、半ば習慣的にその小説を読み続けた。いったん読みかけた本を途中で放り出すのが、昔から好きではない。最後の方になって急に面白い展開になるかもしれない―そんなことが実際に起こる確率はずいぶん低いものなのだが。」というところである。自分に読解力かないからなのか、次のはしっくりくるかもしれない…そんな自虐と希望を繰り返し感じながら読み進めた僕へのご褒美みたいな一文であった。相変わらず何がいいたいのかよくわからない短編の中に、しっくりきた部分だ。最後の短編、一人称単数に出てきたこともご褒美に感じた理由かもしれない。そういう思いで読んでるのは君だけじゃないぞと言われているようだった。

そんなわけで今回も村上春樹をある意味楽しめたわけだけど、またきっと、今回の本の内容を全く忘れてしまう頃までは村上春樹の作品に手を出すこともないだろう。そしてきっとこれからもずっと僕とこうやって村上春樹と付き合っていく。

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